超伝導量子コンピュータに用いる素子を開発
私は入社当初から現在に至るまで量子コンピュータを研究しています。超伝導量子コンピュータの独自素子「ダブルトランズモンカプラ」は最新の成果で、20年以上研究を続けてきたことを思い返しても私史上最大の成果だと思っています。超伝導回路と原子や光の物理系は実は理論上同じようなモデルで記述することができます。私は入社してしばらく原子と光を使った量子コンピュータを研究していましたが、ある時量子コンピュータにおける各物理系のポテンシャルを見積もる方法を発見しました。その後、超伝導は極めて高いポテンシャルを持っていることに気づき、それを最大限に活かせば非常に高精度な2量子ビットゲートが実現できるのではないか、と思っていました。それからずっと超伝導のポテンシャルを最大限に活かせるような方式はないかと考え続け、やっと思いついたのがダブルトランズモンカプラです。ここでカプラとは、量子ビット間の結合の大きさを調整できる可変結合器のことです。シミュレーションを行ってみると実際に知られている他のカプラとは全然違う良い特性があり、これこそ今まで思い描いていたものができたと感じて、2022年に論文を発表しました。理論的に新しく、これまでのカプラよりも良い特性を持っている上、99.99%という極めて高い精度の2量子ビットゲートも理論上は可能であることが示せました。しかしそれは理論上の産物であって、実験をしてみたら全然性能が出ない可能性もあります。そこで超伝導量子コンピュータの権威である理化学研究所の中村秦信先生と共同研究を行い、私が理論提案した素子を中村先生のチームが作って実験し、その実験データを東芝側で解析して結果を議論し、ということを何回も繰り返して試作を重ね、ほぼ理論どおりに動く素子が出来上がりました。
実際に作製したダブルトランズモンカプラの回路の光学顕微鏡写真(上)
ジョセフソン接合(JJ)付近の拡大写真(下)
※光学顕微鏡写真は分かりやすいよう色付けしています
Rui Li. et al., Physical Review X 14, 041050 (2024)より抜粋
量子インスパイアード計算機による応用技術
超伝導で精度の高いゲートを作りたいという思いで研究を続け、やっと思いついて現在の成果に至ったのですが、その間の大きな変化としては日本の政策の変換期があり、量子アニーリング方式が流行った時期がありました。今はゲート方式がメジャーですが、ゲート方式量子コンピュータを作るのは大変で、諦めかけていた時期でした。私はゲート方式の専門家でしたが状況はよく理解していたので、2015年にアニーリング方式や組合せ最適化問題の研究に興味を持ち勉強し始めました。超伝導の高いポテンシャル、アニーリング方式で解けることが話題になった組合せ最適化問題、そして当時もう1つ流行っていたディープラーニングで用いられる非線形なニューラルネットワークという3つを、何か組み合わせられないかと思いながら半年間考え試行錯誤した末、量子分岐マシンという独自の提案が出来上がったのです。しかし、大規模な量子分岐マシンを超伝導で実際に作るのは大変である一方、他社は量子効果の保証がない方式で大規模化を実現して注目を集めていました。それに刺激され、量子を捨てて古典力学の世界に変換すると簡単にシミュレーションできるという発見当初から知っていた事実を利用し、この量子分岐マシンの古典版の数値シミュレーションによって大規模な問題を解いてみたところ、FPGAと呼ばれる特殊な古典計算機でこのシミュレーションを実行すれば上記の他社方式に勝ててしまうことがわかりました。これを本気でやろうとしたことが量子研究者である私の思い切ったところです。なぜなら、普通なら量子の研究者が古典に手を出すのはプライドを捨てたみたいに感じてしまうからです。幸いなことに、研究開発センターにはこのアイデアを実現するのに必要なFPGAの専門家がすぐそばにいました。そこで社会のため、会社のために古典でやれるところまでやるべきだと考え、シミュレーテッド分岐マシンというテーマを量子コンピュータ研究の傍らで進めました。そしてそれは社会実装しやすい技術でしたので事業部も事業化に乗り出し、実際にクラウドサービスの事業化まで漕ぎ着けました。
2つの発振器を用いたシミュレーテッド分岐マシンのダイナミズム
H. Goto et al., Science Advances 5, eaav2372 (2019)より抜粋
東芝の研究開発センターだからできること
私はこの研究者紹介のページに登場する研究者として、15年ほど前に取材を受けました。当時から研究テーマは一緒で、ずっと深掘りし続けたことで現在があります。この分野のほぼ全ての領域を20年以上、理論から実験まで取り組んできたので、この領域であればこの方向を狙うべきである、あるいはこの領域はもうだめだ、ということを見渡すことができます。他社の研究所の方々と話をしていると、数年でローテーションがあるなど1つのテーマに長く取り組むのは困難な仕組みもあるようです。そのような環境ではなかなか専門性が身につきません。ダブルトランズモンカプラの成果も、1つの研究分野の歴史を全て体験して吸収し続けてきたから得られたものです。また研究開発センター内には、それぞれの分野の学会で目立っているようなレベルの専門家がすぐそばにいて、容易にコラボレーションができます。普通であれば他の大学や企業、研究機関の先生や専門家との間で行うオープンイノベーションが、研究開発センターの部門間で可能なわけです。量子、コンピュータサイエンス、材料科学、AIなど、異なる分野の最先端の研究に取り組んでいる部門が同じ建屋にいて、世界でも通用するような異分野の研究者が一箇所に集まっているからできることがあると思います。研究は一生やっていたいと思っています。とはいえ現場でずっと動き続けるのは大変だと思うので、若い人と協力して進めていかなければならないと思います。後輩社員には私よりも計算のできる人がいるので任せるところは任せ、シミュレーテッド分岐マシンのアルゴリズムの改良など、私にしかできないことは自分でやっています。ダブルトランズモンカプラの改良に関しては若い人たちからいいアイデアが出てきています。最近日本でも量子技術は注目され、物理学科、情報学科、コンピュータサイエンスの分野から優秀な学生さんが量子コンピュータの分野に入っていて、そういう人がどんどん活躍できる状況になってきていると思います。
学生の皆さんに一言
『これができたらすごいと思う夢の技術のイメージをいくつも持っておきましょう。』
今の知識では思いつかずどうしたらいいか分からないけれど、こういうことができたらすごいのになというネタを沢山持っておく。それを目指して勉強していれば、このアイデアをここに使えばあの時無理だと思っていたことができるのでは?ということにいつか気づくことができます。そういうネタを持っていることは研究者として求められる重要な資質なのではないかと思っています。目標がなければそこに辿りつくために必要なことが見えてきません。自分がもっと成長してアイデアをたくさん出せるくらい賢くなった暁にできそうな夢を、常にいくつか持っておきましょう。