特集・トピックス:がん治療の新技術、「山形モデル」で動き出す医療の未来
重粒子線治療装置、世界標準化に向け挑む

がん治療の新技術、「山形モデル」で動き出す医療の未来─重粒子線治療装置、世界標準化に向け挑む

「治療室には音楽が流れており、リラックスできる雰囲気。言われなければ、照射されているのかも実感できない。痛みもなく照射時間も短いし、治療を受けて良かった」

これは、治療を受けた患者さんの感想だ。「QOLを低下させない身体に優しいがん治療の最前線」にて紹介したように、2021年2月25日、山形大学医学部 東日本重粒子センターで二人の患者さんが重粒子線の照射を受けた。北海道・東北地方のがん治療に新しい選択肢が生まれた瞬間だ。

だが、重粒子線治療装置は、世界でも稀少な存在。東日本重粒子センターの副センター長として、装置の設計段階から設置全般を統括した岩井氏の言葉を借りると「重粒子線がん治療は、マイナー中のマイナー」。多くのメリットを享受できる同装置が、広く普及し社会に根付くにはどうすれば良いのか。また、それにより、医療の未来はどのように発展していくのか。その展望に迫る。

世界最小サイズを誇る重粒子線治療装置(回転ガントリー)
世界最小サイズを誇る重粒子線治療装置(回転ガントリー)

大手重電メーカーがしのぎを削るなか、2016年に東芝は量子科学技術研究開発機構QST病院に、日本初の超伝導技術を用いた重粒子線がん治療用の回転ガントリーを納入した。「ガントリー」とは、患者さんが横たわり治療を受ける筒状・ドーナツ状の部分を指す。360°回転し、どの角度からでも精密にビーム照射が可能であるため、治療範囲は大幅に拡大した。東日本重粒子センターでは、東芝の技術によりQST病院よりもさらに小型化された世界最小サイズの回転ガントリーを導入している。

山形大学医学部 東日本重粒子センター 副センター長 岩井 岳夫氏
山形大学医学部 東日本重粒子センター 副センター長
岩井 岳夫氏

「QST病院に日本初となる回転ガントリーを納入し、きっちり動かした実績は大きい。競合企業からは、『そのスケジュールでは納品が難しい』と二の足を踏まれた。稼働実績とスケジュール。この2つが決め手だった」と岩井氏は東芝を選んだ理由を述懐した。

回転ガントリーの小型化に成功、世界最小サイズを実現

東日本重粒子センターには、「固定照射室」と「回転ガントリー照射室」の2つの治療室が準備されている。2021年2月に開始されたのは、固定照射室での水平方向ビームによる前立腺がんの治療だ。治療は順調に進んでおり、稼働間もなく想定の3倍を上回る100件超の診療予約が入ったという。岩井氏は、「まずは治療実績を上げたい。回転ガントリー照射室が稼働したら、これらを軌道に乗せるのが次の目標です」と意気込む。

回転ガントリー照射室が安定稼働すれば、頭頸部、骨軟部、肝臓、すい臓などのがんも対象となり、随時、部位を拡大していくという。ただし、照射可能な部位が広がれば、患者さんに合わせたカスタマイズが重要になる。今後は、その精査が課題になるだろう。

東芝エネルギーシステムズの吉野氏は、「世界最小サイズにこだわった回転ガントリーの設置。QST病院向けの回転ガントリーと比べて、装置内の部品が近接し、構造やレイアウトは複雑になっていますが、細かな調整で乗り切った。装置からのデータ取得も問題ない。設計段階から様々な技術課題に対してパートナーであるビードットメディカルの協力を得ながらここまできました。それでも、始まってしばらくは、不安を拭うことはできないでしょう」と率直に話してくれた。世界最小サイズという高い目標を前に不安と期待が高まる。

※放射線医学総合研究所を出身母体とし、そこで培った高度な技術と様々なノウハウを持つスタートアップ企業
株式会社ビードットメディカル (https://bdotmed.co.jp/index.html)

東芝エネルギーシステムズ株式会社 粒子線事業技術部 シニアマネージャー 吉野 晃氏
東芝エネルギーシステムズ株式会社 粒子線事業技術部
シニアマネージャー 吉野 晃氏

「次なる目標は、世界基準となる『山形モデル』を世界に発信すること。山形大学医学部と包括的な国際交流協定を結んでいる韓国の延世大学、ソウル大学にも、同じ設計の回転ガントリーを納入予定です。臨床経験を積んで成果が出はじめると、この装置がポジティブに受け入れられて、多くの期待と信頼を得られると確信しています。治療現場からの様々なフィードバックをいただきながら、洗練させたいですね」と吉野氏は語る。

最先端ゆえの課題。
臨床数が世界進出への足かせに

医師にも患者さんにもメリットの多い重粒子線治療が、一般化しないのはなぜか。その問題点について、理学博士でもあるビードットメディカルの竹下氏は、その立場から「臨床数が少ない」と指摘する。

「重粒子線は、X線に比べてまだ歴史が浅く洗練はこれからです。だからこそ、東日本重粒子センターを始めとして、臨床での実績を重ね、その知見を共有する。それが、重粒子線治療装置を設置したユーザーの使命ではないでしょうか」と竹下氏。「少し偉そうな話をしました」と笑うが、放射線医学総合研究所出身としてユーザーに伴走してきた経験と、装置製造実績からメーカーの立場も分かるからこその偽らざる本音だろう。

株式会社ビードットメディカル 技術開発部 部長 竹下 英里氏
株式会社ビードットメディカル 技術開発部 部長 竹下 英里氏
株式会社ビードットメディカル (https://bdotmed.co.jp/index.html)

X線と違って重粒子線は、電離作用やエネルギーが高くなるピークをがん腫瘍に合わせられるので、正常な細胞へのダメージを抑えつつ、がん腫瘍を破壊できる。つまり、X線は身体表面で効果が最も大きく、身体中を進むと効果が弱まるのに対して、重粒子線はピンポイントでがん細胞に照射ができるのだ。

※放射線が物質を通過する際、そのエネルギーにより物質中の原子が持つ電子(マイナス電荷)をはじき出し、プラス電荷の原子と自由電子に分離すること

この特長を最大限に生かすためにも、「東芝の回転ガントリーなら、簡単に操作ができてパッパッと回る」と竹下氏が強調するように、かなり操作しやすく回転速度も高まっている。東芝エネルギーシステムズの吉野氏も、「回転技術に関しては、ひとつの目的、つまり正しくがん細胞へ照射することに対しては、ほぼ到達点にある」と自負する。

導入はゴールではない。
さらなる改良に向け自らの限界を超える

スキャニング照射機器から射出される重粒子線ビーム。この部分で大きな闘いがあった。通常のスキャニング照射機器では、2台のスキャニング電磁石を配置。磁場を高速に変化させてビームを直角に交わらせることで2方向に照射させることで、患部全体を塗りつぶすような照射が可能になる。しかし東芝は、量子科学技術研究開発機構の古川氏(現ビードットメディカル社長)らと共同開発したコイル巻線製造技術を活用することで、1台のスキャニング電磁石で同じことを実現した。結果として、従来9m必要だった機器から照射位置までの距離を3.5mまで短縮している。これが、回転ガントリー自体のコンパクト化にもつながった。

左側:スキャニング照射機器のサイズ比較右側:回転ガントリーのサイズ比較(イメージ図:本機器、影:従来)
左側:スキャニング照射機器のサイズ比較
右側:回転ガントリーのサイズ比較(イメージ図:本機器、影:従来)

このように距離を短縮することで、東日本重粒子センターの機器には磁石自体を延長する余地が残った。磁石はラッパの形状をしているため、それを延長させればラッパでいう音がでる部分にあたる照射野を広くできる。それが、ソウル大学に納入予定の重粒子線治療装置だ。ここで臨床結果が蓄積されれば、いずれは東日本重粒子センターの照射野も拡張するかもしれない。山形モデルでの試行錯誤、そして困難への挑戦は、確実に未来へとつながっている。

マイナーな重粒子線だが、X線や陽子線よりも恩恵が大きい

世界初、世界最小と次々に達成してきた彼らだが、歩みは終わらない。すでに次世代の技術を見据えているという。それが、CTやMRIといった画像診断とのコンビネーションだ。回転ガントリーにCTやMRIを組み合わせて、実際のがん細胞を見ながら照射する。X線照射によるがん治療でも、これは多くの医師が求めている技術だ。竹下氏は「医師がX線治療でやりたいことは、重粒子線治療でもやりたいことのはず」と実情を語る。

「重粒子線は、がん細胞にピンポイントで照射が可能なので、X線よりも恩恵が大きいはず。もちろん、現状のシステムにMRIを加えるとなれば、コストの壁はある。しかし、がん治療の世界が変わることは間違いありません」と岩井氏は語る。

そして、「現在、重粒子線がん治療の保険適用は、前立腺、頭頸部、骨軟部の3部位です。治験データを蓄積することで、保険適用の範囲を検討する厚生労働省 先進医療会議に貢献して、できるだけ部位を広げたい」と岩井氏は言葉を継いだ。

ライバルは、X線治療。
メジャー治療を目指し、勝負をかける

世界の常識では、がん放射線治療のメジャーはX線である。重粒子線がん治療を広めるには、臨床試験により、X線よりも優位であるエビデンスを出さなくてはならない。

「放射線治療も統計学を土台にしています。5年後、10年後の生存率、副作用の出現率、これらデータを蓄積するのが、医療現場に求められています。数を稼がない限りは何の勝負もできない。誰かが主導して世界的にやらなければいけないと思います」(竹下氏)

そこで求められているのが、重粒子線治療装置を導入している施設を集めて意見交換を行う「ユーザー会」だ。竹下氏は「ユーザー目線で重粒子線がん治療が今後どうなっていくのか、どういった技術開発が必要かなど、生の声を聞くべきです。東芝は、国内外を問わず顧客を増やしています。医学物理士どうし、また、医師どうしは交流がある。山形大学、ソウル大学、延世大学の関係者が集って話すことに抵抗はないはずです。意見交換の場を上手く活用してチャンスを掴むべき」とアドバイスを送る。

QST病院を始めとして、重粒子線治療装置を導入している施設は、「重粒子線治療 多施設共同臨床研究」として臨床試験を重ねている。東日本重粒子センターも回転ガントリーが安定稼働すれば、肝臓・すい臓がんの臨床試験を始める予定だという。

目指すは、マイナー中のマイナーからの脱却、重粒子線がん治療のメジャー化だ。