特集・トピックス:QOLを低下させない身体に優しいがん治療の最前線【後編】
新技術投入の重粒子線で医療現場に「衝撃」を

日本に7台しか存在しない重粒子線治療装置。がん治療にパラダイムシフトを起こす新たな治療法として注目されている。今まで、東北地方ではその治療を受けることが出来なかったが、山形大学医学部附属病院 東日本重粒子センター(以下、東日本重粒子センター)に設置され、2021年2月から治療が始まった。

QOLを低下させない身体に優しいがん治療の最前線【後編】─新技術投入の重粒子線で医療現場に「衝撃」を

困難を極めた設置作業を実現したのは、東日本重粒子センター、ビードットメディカル、東芝エネルギーシステムズのプロフェッショナルたちだ。前編では、がん治療の現状や重粒子線治療装置の概要、そして、ハードの設置と調整について触れた。今回は、ソフト面での挑戦や環境への配慮、そして、目指す未来について詳らかにしていこう。

※放射線医学総合研究所を出身母体とし、そこで培った高度な技術と様々なノウハウを持つスタートアップ企業
株式会社ビードットメディカル (https://bdotmed.co.jp/index.html)

東芝エネルギーシステムズの岡屋氏は、患者さんの位置を合わせたり、体内の動きを確認したりするための画像を扱うソフトを設計・設定している。東日本重粒子センターだけでなく、神奈川県立がんセンター重粒子線治療施設「i-ROCK」にも関わった。しかし、東日本重粒子センターには大きな違いがあるという。それは、撮影する方向だ。

「i-ROCKでは、患部さんの正面と側面の撮影に加えて、斜めから透視ができる治療室もあります。一方、東日本重粒子センターでは、撮影も透視も斜めから行うことで、装置の点数を減らすことができました。ただ、問題がないわけではありません」という岡屋氏の言葉に、金井氏が言葉を継ぐ。金井氏は、「照射の状態」や「患者さんの治療状況」の管理システムと、放射線治療計画のソフトウェアをメインで担当する。

「斜めで撮った画像を、放射線技師や医師がパッと見て理解できる形で表示するのが難しかった。治療の段階では、その画像を元に安全性を確認して、ビーム照射のボタンを押さなくてはならない。最初は、チャレンジングだなと感じていました」(金井氏)

東芝エネルギーシステムズ 粒子線事業技術部 プロジェクト第一グループ
東芝エネルギーシステムズ 粒子線事業技術部
プロジェクト第一グループ スペシャリスト
岡屋 慶子氏

しかし、日々、画像と向き合う放射線技師のスキルは、想像を遙かに超えていた。1カ月もすればアジャストし、画像を理解し評価できるようになったそうだ。

岡屋氏も「放射線技師さんの力に感謝です。最初に画面の表示を検討するときは、まったく分からない人が見る事を前提に、直感的に理解できるように仕上げる努力をしました。例えば、小さな人体モデルを画像に重畳表示するなど。しかし、あまり意味がなかったですね。下手な表示は邪魔になることもあるのです。やはり、放射線技師さんのスキルが大きかったです」と語る。

もう一つクリアしなくてはならない課題があった。それが、X線装置とソフト間の調整だ。「i-Rockと違う他社装置との調整、得られる画像の画質の違いが大きな課題になりました」と岡屋氏。患部の画質が低下すれば、治療にも影響が出る。そういった事態を避けるために、重粒子線治療装置の稼働、試行錯誤を繰り返し、画像ソフトを調整したという。

「1mmのズレ」も許さない精緻な照射の「位置決め」に立ち向かう

岡屋氏が携わるもう一つの開発が、「位置決めソフト」の精度向上だ。位置決めソフトは、あらかじめ撮影したCTによる参照画像と、治療室のX線で撮影した画像とのずれを自動で算出し、その値に基づいて、7つの関節を持つ多関節型のロボットアームがスムーズかつスピーディに治療台を動かし、患者さんの位置を定めてくれる。

従来の重粒子線治療装置では、放射線技師が経験とスキルを駆使して手動で設定していた。想田氏の言葉を借りれば、「手動では、1日に20人も位置決めすると頭がショートしそうになる」ほどの高い業務負荷だという。この位置決めソフトは、東芝が、i-Rockに導入したのが初めてで、東日本重粒子センターで2カ所目となる。

「人体模型を使用した位置決めの精度確認を繰り返しました。現状で完成形ですが、形の変わらない人体模型とは違い、治療では骨も内臓も動く患者さんが相手なので、ソフトの追加調整が発生するかもしれません」と岡屋氏。位置決めは、患部への的確なビーム照射に欠かせない技術で、「患者さんの位置がずれると、患部に的確な照射ができません。地味ですが非常に重要な仕事だと自負しています」と続けた。

東芝のロボットアーム型治療台
東芝のロボットアーム型治療台

もちろん、「地味ですが」は彼女なりの謙遜だ。金井氏は「安全、正確に治療をするためにも必須。ビーム照射自体が1mmずれるのも、位置決めが1mmずれるのも、患部の照射に与える影響は同じです。これまで見てきた位置決め装置のなかでも、ワークフロー的にはかなりスムーズで使いやすい。良く開発されていると思います」と補足する。非常に高い精度を求められるが、岡屋氏は、「位置決めソフトの自動計算アルゴリズムは、東芝の研究開発センターが開発しています。オール東芝の面子にかけて、自信を持って提供しています」と笑顔を覗かせる。

1mmのずれも許さないためには、呼吸と共に動くがん細胞に正確にビーム照射する「呼吸同期照射法」も重要だ。

回転ガントリーによる呼吸同期照射法へ期待を寄せる山形大学大学院医学系研究科 先進的医科学専攻重粒子線医学講座 講師 想田 光氏
回転ガントリーによる呼吸同期照射法へ期待を寄せる
山形大学大学院医学系研究科 先進的医科学専攻
重粒子線医学講座 講師 想田 光氏

「呼吸同期照射法は、回転ガントリーのポテンシャルを十分に引き出した治療を可能にする」というのは、重粒子線治療装置の精度管理・調整、安全性検証を担当する想田氏だ。回転ガントリーでは、超伝導電磁石を利用した世界初の技術。ガントリー自体が360°自由に動くので、どの角度からでも精密に重粒子線の照射ができ、身体に無理のない姿勢で治療が受けられる。

「現状の照射は、固定照射室で行っており、呼吸の影響を受けにくい前立腺がんの骨盤部治療に留まっています。いわば、比較的、簡単な治療です。まずはこの治療で操作に慣れながら実績を積み重ねて、ゆくゆくは適応症を広げたい。肺がんのように呼吸の影響を受けるがん細胞にも、回転ガントリーで照射できるようにしたいと考えています」と想田氏は将来を語ってくれた。

年間の電気代を2,000万円削減! 省力化とコスト節減で環境配慮へ

省エネルギー、コスト節減の意義を語る山形大学医学部 東北未来がん医療学講座 助教金井 貴幸氏
省エネルギー、コスト節減の意義を語る
山形大学医学部 東北未来がん医療学講座 助教
金井 貴幸氏

東日本重粒子センターの重粒子線治療装置は、患者さんだけでなく、コストにも配慮されている。重粒子線治療は高額医療であり、コスト削減はその普及において重要な要素の一つだろう。このコスト削減を実現したのが、磁極と磁極の間を狭める技術だ。金井氏は、このように説明する。

「ビームを曲げるのは磁力です。より大きく曲げようとすれば、強い磁力が必要になる。重粒子線治療装置で使われているのは電磁石なので、強い磁力を得るには大量の電力を消費します。しかし、磁石と磁石の間を狭めれば、そこまで大量の電力を使わなくとも強い磁力が発生します。省エネルギーにもつながり、環境にも優しい。結果としてコストの削減にもつながりました」(金井氏)

実はこの技術については、2013〜14年頃から山形大学が他社との共同研究で基礎的な試験を行っていた。東芝は自社開発でこの技術を実現し、今回の導入に至ったという。

しかし、実現はすんなりとは行かなかった。想田氏は、「i-ROCKで培ったパラメーターが使えず、ビーム調整をやり直さなくてはいけませんでした。加速器の電磁石の電力が約半分になるのですが、加速もその分ゆっくりしている。通常、2〜3秒だった周期運転が5秒くらいかかるようになります。そうなると、ビームの周回粒子数的にも厳しい。想像以上の影響でした」とその苦労を思い出す。

その甲斐もあり、磁極と磁極の間を無事、狭めることができた。結果、通常の装置なら1億2,000万円以上かかる電気代を、1億円を下回るまで抑える目処がついたという。コストだけでなく環境負荷の低減への一助になったのも、大きなメリットだ。さらに、電源も通常の半分のサイズとなり、小型化にも大きく貢献できたという。

超ハイスペックで省エネ、小型化の「山形モデル」設置、その先へ

2021年2月25日、東日本重粒子センターの重粒子線治療装置で、無事、治療を開始した。東北地方とその周辺のがん治療に、新しい選択肢が加わった瞬間だ。すでに、予約患者数は想定の3倍に達している。

「今後は費用を抑えて改修し、ユーザー意見も取り入れるのが重要」と株式会社ビードットメディカル 技術開発部エンジニアリング課 課長 皿谷 有一氏株式会社ビードットメディカル (https://bdotmed.co.jp/index.html)
「今後は費用を抑えて改修し、
ユーザー意見も取り入れるのが重要」と
株式会社ビードットメディカル 技術開発部
エンジニアリング課 課長 皿谷 有一氏
株式会社ビードットメディカル (https://bdotmed.co.jp/index.html)

当時、治療開始を間近に控え、皿谷氏は「正直、間に合わないかも…」と心が折れかけたこともあった。それでも、地道にビーム照射の変動を抑えて、0.5mm単位のずれを測定しながら修正を行い、どうにか間に合わせることができた。体内に照射される放射線量を可視化して、患部や患部周囲の線量分布を計算して照射計画を立てる『治療計画装置』がスムーズに稼働したことも、間に合った要因の一つだという。

想田氏・金井氏は、自分が担当している情報システムで、重粒子線がん治療を待っている患者さんの治療予定日を見ながら、「なんとしても、2月25日の治療開始を死守せねば」と歯を食いしばりながら作業を進めてきた。もちろん、皿谷氏、岡屋氏も同じ気持ちだだったからこそ、無事、治療を始めることができた。しかし、これはあくまで始まりでしかない。現時点で安定稼働しているのは、水平方向固定照射式。今後は、回転ガントリー式も本格的に稼働し、安定化するのが喫緊の目標だ。

「回転ガントリー式が安定的に動いて、始めて東日本重粒子センターのラインナップが完成すると思っています。東芝さんにもビードットメディカルさんにも、あと一息、ご協力を頂きたい」と激励する想田氏に、「すでに現状の位置決めシステムは完成の域に達しています。回転ガントリー式の安定稼働も時間の問題でしょう」と金井氏は相槌を打った。

見据えるのは、更に未来だ。想田氏は、「東芝の強みの一つが、位置決めの精密さです。それだけに、今後どう進化させるかは、大きなテーマになると思う。たとえば、3次元的な位置決めができるようになると、一段階レベルが上がると感じています。共同研究として、東芝と山形大学でいろいろ意見を出し合って考えたいですね」と期待を寄せる。

位置決めの精度向上に向け、さらに研鑽を積む
位置決めの精度向上に向け、さらに研鑽を積む

岡屋氏はその期待に、「X線やCT画像を使った斜めの位置決めは、今回の東日本重粒子センターでまずは完成だと思っています。これからの課題は、他の画像の使用。新しい開発要素として認識しています」と応えた。皿谷氏も、「患者さんや医師、放射線技師といった、様々なユーザーの意見を取り入れながら、バーションアップさせていくことが重要」と考えている。

2012年、このプロジェクトの前身である「山形大学重粒子線がん治療施設設置準備室」が立ち上がったとき、山形大学には重粒子線治療の経験者が1人もいなかったという。金井氏は「それが最大の課題で、挑戦でした。そんな中でも、治療開始までこぎ着けることができた。経験者がいない施設でも、導入が可能ということを証明したとも言えるでしょう。これが、山形で達成した最大の成果かもしれません」と感慨深げに語った。

患者さんのQOL向上を実現するために、3者3様の努力が結集し、新たな治療パラダイムへ前進した東日本重粒子センターの重粒子線治療装置。従来よりも省スペース、省エネで設置でき、かつハイスペックで誰もが使いやすいシステムだ。それを実現した東日本重粒子センターの重粒子線治療装置は、「山形モデル」として評価され、期待が高まっており世界進出も視野に入れている。高度なシステムや設置面積の関係などから普及の難しさを指摘する声もあるが、山形モデルは、重粒子線がん治療をより一般的な医療とする第一歩になるかもしれない。